あなたの酸素ボンベになりたい -4ページ目

耳が痛い

コーヒーをがぶがぶ飲みながらワードに向かっています。

インスタントコーヒーを飲むと受験生の頃を思い出します。



「巨人の星」をビデオ屋で借りてきては見ていた時代。



そんなんで受験もなんとかなったんだから、卒論もなんとかなるかもしれないと考えています。


なんとかなるとしか思えない。プラス思考ばんざい。




さて。





最近友人にすすめられて読んだ本、辰濃和男『文章の書き方』の中にこんな引用がありました。


私は文章に関して、本田勝一の『日本語の作文技術』をあがめていましたが、この本も追加されました。

気づけばどっちも朝日の元記者ですね・・・。



私は何とかしてことばの、また文章の、センチメンタリズムから逃れたい。

何のどこをセンチメンタリズムと呼ぶかについて議論があるかも知れぬが、それはここでは触れぬことにする。

ともかく私は、人のものにしろ自分のものにしろ、文章のセンチメンタルなのには閉口する。

センチメンタリズムというのは、つきつめていくとどこかにウソがあるのではないかとも思う。

センチメンタリズムとそれに伴う雄弁、これを私は自分に警戒したい。


                                        中野重治『日本語実用の面』より引用


ぞっとする。



一番恐れていることを過少過多なく言われてしまった気がする。




読む人を感動させるのはいいけど、文章が感動してはいけない。



感情的な言葉を多用して、文章そのものを感情的にするのは最も簡単な逃げですが、同時に文章をつまらなくする一番大きな理由でもあります。


「ウソ」というのは、「感情的な言葉」というのはつまり使い古されて、手垢がついて、柔軟性を失ったことばであり、それがものごとを正確にあらわすということはないという意味かな。


それとも、「センチメンタル」は欺瞞や驕りの表れ、つまり誇張されたり捻じ曲げられたもの→「ウソ」という意味かな。


そういえば、本田勝一も同じような意味で「文章が笑う」という言葉を使っていました。



わかっちゃいるけど難しいんですよね・・・。



宝石いも

私は絵が下手です。


もう、絵に関するセンスが気の毒なくらいないんですよ。


小中学校を通して美術の時間が嫌いだったし、写生大会はいかにサボるかということを常に考えていました。


下手だけどなんか味がある絵を描く人とか、あまりに下手すぎて周りを笑わせてくれる人がいるけど、そんなのでもない。



下手かつ、つまらない絵を描くのです。




でもね、過去に一度だけ、ものすごくいい絵を描いたことがあります。

自分でもあれは素晴らしい絵だった、と思うし、周りからも十分な評価が与えられました。





確か小学校4年生の頃だったと思います。


遠足かなんかでサツマイモ堀りに行ったときのことを描いた絵です。


さつまいもをまさに土から掘り出さんとしているその瞬間を、小学校4年生の私は画用紙いっぱいに書いていました。


そしてその絵は、市が市内の小学校にむけて月いちで出している「おしらせ」の表紙に載り、校長室前に飾られました。


私は小学校4年生のころの記憶なんてほとんどないけど、その絵を描いたときのことははっきり、鮮明に覚えています。


なんの迷いもなく鉛筆を動かし、頭の中では描くものがもうすでにできあがっていました。




それは、サツマイモがびっくりするくらい紫色だったからです。


そして、サツマイモの紫色にびっくりしたからです。


土から出てきたばかりの細かい砂の粒が付いたサツマイモは、夏の太陽の光を反射して目が痛くなるくらいまぶしく光っていた。それは宝石いもとも呼べるシロモノでした。


あんなにきれいな紫色は後にも先にも見ていないと思います。


だから、その絵の中の私はほんとに「イモを見て驚いた顔」をしていました。






あ、オチはないよ。ただふと思い出しただけです。


「「・・・だから、どうなんだ」「それがどうしたの?」というようなエピソードが、実はしばしばあなたのその後の人間関係やものの考え方感じ方を決定づけた経験だったりするのです。

・・・どうしてそのことを今まで忘れていたのか、その理由がわからない過去のエピソード。どうしてそのことをたまたま今思い出したのか、その理由がわからない出来事。それこそあなたが何者であるかをあなたに教えてくれる鍵なのです」


ほら、内田樹大先生もこう言っているよ。


ていうか、今自分で書いてて気づいたけど、ほんとに私という人間をよくあらわしてるエピソードじゃん。



・・・・




あー眠いから頭が変になってきちゃったんだなぁ。

卒論ようやっと6枚目。


そうそう、今日禁煙本を読んですっぱりノンスモーカーに生まれ変わりました。




願いごと

今日は、バイトの後に久しぶりに会った友達と新宿サザンテラスに行ってきました。


描写するのも面倒くさいくらい当たり前に、きらきら、ぴかぴか。

母さん、あたし今東京におるよ。




で、サザンテラスのはじっこのほうの広場(フランフランの前あたり)に、でかい万華鏡があります。その中に立って上を見上げて万華鏡を見ると、願いがかなうと書いてあります。


毎朝顔を洗う前に水道の水にリトマス試験紙をつっこんでいるくらい疑い深いあたしが信じるわけないけど、一応その中に立つ前に願いごとを考えてみました。



考えているうちにおもった。


願いごとなんて最近してないなぁ。





11月25日

今日は、女友達2人とプーシキン美術館展に行ってきました。

上野公園はいろとりどりで、秋でした。パンダ焼きを食べました。



マティスやピカソ、ルノワール、セザンヌ・・・。贅沢すぎるよ。


何かを伝えたいと思うその気持ちが、何十年も前のことなのにやっぱり伝わってくる。


マルケの描いたパリのその太陽は本当に輝いているし、モネが感じた風は本当にそよいでいるし、ルノワールが見た光はたしかにあたたかかった。


何十年も前にあなたが感じていた喜びを、あなたの絵を見たわたしたちは共有したよ。

そしてあなたたちも、私たちに感じてほしかったんだと思う。



そして、私もつたないながら、自分が感じた喜怒哀楽を、言葉にして伝えたいと思う。

それは近くにいる誰かであったり、まだ会ったことのない人だったり。



それは、自分の偏見と自分だけの感性が満載だけれど。


私がそれを伝えたいと思うのは、私もそういうものに魅力を感じるから。


大げさな言い方をすれば、それこそが世界をつくっているのではないかと思っている。


例えば、秋の夕暮れの空を眺める。


ある人は、涙が出るほど美しいと思うし、ある人はこれからはじまる寒くて暗い夜を考えて憂鬱になるかもしれない。

どれが正しいというのではなく、全部本当のこと。


その人がこれまで生きてきて、体験し、考えたことの結晶だから。


もっともっと、偏見と主観に満ちた世界になっちゃえばいいと思う。


もちろん、それが偏見と主観に満ちたものであるということをわかったうえで、頷いて、反論してくれる人たちがいることが大前提だけど。


わかって欲しければ、相手のこともわかってあげようと努力しなきゃいけない。当たり前だけど、すごく難しい。


伝えたいことがあるから、人は優しくなれるのかもしれんね。



やばい

毎日が楽しすぎる。

こんなに幸せでいいのか。


幸せな1ヶ月

今日バイトに行ったら、店の中でクリスマスソングが。



今年もきたね。


もうそんな季節なんだね。


そうなんだね。

 

そうなんですね?




とはいえ、このクリスマス前1ヶ月は一年の中で一番好きな季節です。


たのしみにするような予定が、びっくりするほどないにもかかわらず、です。



もうこの一ヶ月は頭の中がマライヤ・キャリーとワムがエンドレスです。

無駄に新宿サザンテラスをうろうろしてみたりします。

幸せそうな人たちを観察したくもなります。




だって、幸せじゃないですか。


街がこれでもか!ってくらいきらきらして、

人も心なしかピンク色に色づいて、なんだか浮き足立っただらしない顔に見える。


バカらしいと思いつつ、誰もがその日をあたためる。


すばらしいじゃあないですか。

いつもばらばらなあたしたちが、同じ気持ちになれる時間なんて一年を通してこの時期しかない気がします。




よし、わかった。



君があの子にあげるプレゼントのリボンは、あたしが結んであげよう。



大発見

私は一体今まで何を見て生きてきたんだろう。少なくともこの3年半。



うちからチャリで1分もかからないところに銭湯があるということに、今日気づいた。

テレビでしか見たことのなかった(正確には毎朝見ていた)あのそびえたつ煙突と、瀬戸内海の壁絵、ケロリン桶。

これぞ昭和!という感じの情緒漂うたたずまい。

その趣は国立の「鳩の湯」以上かもしれない。


東京江戸たてもの園に、千と千尋の神隠しに出てきた温泉宿のモデルになった銭湯があるけど、まさにそれ。


自分が昭和前期にタイムスリップしたかのような変な気分になる。


これはもう、ねじめ正一の世界。


ピークタイム(多分)であるにも関わらず、女の客は私だけ。

経営は決して楽ではないだろう。


こんな場所をなくしてはいけない、と思う。なんとしてでも守らなければならない。


・・・だからみんな行ってください。場所を教えて欲しい人は連絡ください。

恋愛末期症状

TBS「今夜、一人のベッドで」がおもろい。


ドラマを毎週楽しみに見るという行為は、何年ぶりでしょう。


内容についてはTBSのサイトの相関図でも見ていただくとして、


ストーリーは、ありがち。というか昼ドラ。

しかし昼ドラにはないさわやかさと「粋」で、一線を画しています。

怒り狂ったひっつめ髪の女は出てこないし、嫉妬に目が血走った男も出てこない。


いくらどろどろしてたって、真面目になってはだめなのだ。

どんなにありえない状況に追い込まれても、どこかでふざける本木雅俊の演技のおかげで目を覆わなくてすみます。










・・・心の中でつっこんでくれた人もいるかもしれないけど、こんなふうにドラマについて語るようになったら末期症状です。

個人的には、毎週欠かさず恋愛ドラマを見るようになったのもかなり進行した症状です。


どんなに視聴率をとっているおもしろいドラマより現実の恋愛のほうがよっぽど楽しいから、ちゃんと恋愛しているうちは恋愛ドラマにそこまで執着することはないはずです。


仲よさげに歩いているカップルをうらめしげに目で追ったり、コンビニの店員を品定めするようになったらもう長くはないです。






書きたいことはまだありますが、たくさんの人を敵にまわしたところで終わりたいと思います。さようなら。

無限遠の2倍にあるもの

ふと思い立ってメモをはじめることにしました。


「メモをはじめる」って変な日本語。


ありとあらゆることをモウルスキンくんにメモしていこうと思います。


人間の記憶ってすごく頼りないから。すごく感動したはずなのに、怒りを感じたはずなのに、悲しかったはずなのに、何か書こうと思ってもぜーんぜん覚えてなかったりするから。


記憶といえば。

全然違うことを言います。


2週間ほど前、杉本博司という人の写真展に行ってきました。そう、広告ばんばんうってるあれね。「時間の終わり」展。


そこでね、コルビジェやら安藤忠雄やら、いわずと知れたスゲェ人たちがつくった建築を「焦点を無限遠の二倍」にして撮ったボケボケの写真があったわけですよ。彼の作品のなかの『Architecture』シリーズというらしいんですが。


まぁあたしなんかが見たって意味がわかりませんよね。「無限遠の2倍」っていうのも意味わかんないし。凡人としては、そんなボケボケの写真なんか見ちゃったら「真面目にやれよ」、って思ってしまうのがほんとのところです。


でね、そのボケボケの建築の像は「我々の記憶の中に結ばれる、建築の典型的なイメージ」らしいのよ。これはBRUTUSの受け売りです。


ナルホドねぇ。


それで思うんだけど、すごく感動した事柄についてブログなり日記なりに書こうと思うんだけど全然書けないことがある。というか、直後には何も書けない。書いたとしてもおもしろくない。・・・いつもおもしろくないって言われちゃったらあたし何も言えナインダケドさ。


時間がたって、それこそボケボケの像になった頃になって本当に書きたいことが出てくる気がする。

なんかブログをなかなか更新しない言い訳みたいになってるけど。


何が言いたいのかというと、「ボケボケの像」にこそ本質があるのではないか、ということ。


体験の直後の鮮明で繊細な記憶があると、その事柄の「どこに」本当に大切なものがあるかっていうことがわからない。

ああ、あれもすごかったし、これも深読みすればすごいことのような気もするし、あの後食べたカレーも相当うまかったし、というかんじで。


時間が経つと記憶の中の無駄なものが削げ落ちて、ある事柄についての、自分にとって一番大切なものが見えてくるんだろう。

輪郭だけが残ったサヴォワ邸の写真みたいに。








・・・だからって、来年からメモをとることが仕事になるかもしれないのにそれを放棄するわけにはいかないわけで。

ああ、卒論やってるとブログの文章が進むなぁ。

やらなきゃいけないことがあると部屋の片付けしちゃう理論と同じですね。

あたしの場合、それは絶対にないけど。



 


あかぎと私

私の第二のホームタウン国分寺には知る人ぞ知る「アカギ」という大盛り定食屋があります。

私の学生生活はアカギとともにあったと言っても過言ではありません。

体重が高校時代から+7キロという驚愕の事実は、この店なくしてはありえなかったことです。


初めて行ったのは大学1年生の時。赤ちょうちんに、薄汚い店内。客をも恐れさせるおばちゃん。ごはんも、サラダも、おかずも、味噌汁も、客の男女の差なく全部大盛り。そんな夢のような店に魅了され、多いときは週に3回通い、付き合っていた人とがらがらの店内でクリスマスを過ごしたこともあります。

うっかり行ってしまった定休日の日曜日を呪い、スタミナ焼肉を注文したのにとんかつを出されても「いいんです、これ食べるんで」と笑顔で対応したこともありました。


最近はめっきり足が遠のき、久しぶりに行ったときには新メニューが登場し、店員の大幅なメンバーチェンジが行われ、確実に時はながれているのだということを痛感させられたわけです。


気になったのは、女性客に対してごはんの量を聞いてきたことです。私が通い始めた当時からいる、アルバイトのスタメン以外は聞いてきます。これには正直がっかりさせられました。確かに、あのごはんの量は少し多すぎるかもしれない。女性客のほとんどがごはんを残してしまうという事実も少なからずあったということも想像がつきます。

しかし、「男も女も同じ量を食え、食えなきゃ来るな」といういさぎよさがアカギの魅力だったはずですし、少なくとも私はそれを愛していました。


会社の最終面接で一緒のグループになった人たちと行ったとんかつ屋で、男女のごはんの量に最初から差をつけてきたことに文句を言ったエピソードを持っていますが、内定式の日、久しぶりに会った同じグループだった男の子に「あれはないと思った」と言われました。

あかぎだったらそんなことを言われることもなかったのに、と意味不明な悔しさを感じたこともあります。


女同士ならまだしも、男の人とごはんを食べに行って「ごはん大盛りで」と言いたいけど言えない、大食い女のつらさを考えたことがあるでしょうか?その面倒かつ恥ずかしい行為をしなくていいという心地のよさ。そこがよかったのです。



タイトルから少々逸れてしましました。本当はもっと違うことを書こうと思っていましたが、書いてしまったものはしょうがない。

アカギにはここらで原点に立ち戻り、自分の店のアイデンティティを考えていただきたいと願ってやみません。