めりはり
今日はクリスマスイブでした。知ってたのに、夕方家を出て気がついたふりをした。
地下鉄を待っていたら、前でカップルがけんかしていた。女の子が口をとんがらせている。男の子が困っている。
「ちょっと、けんかなんかやめなよ。あたしなんてこれから朝まで仕事だよ。あんたたち幸せなんだよ」
と心の中で思ったけど、そんなこと彼らには全然関係ないのである。
というか、けんかをするってのも彼らにとっては幸せなことなのだ。いいねぇ。
前にもこんなこと書いたかもしれないけど、クリスチャンでもないけど、私は12月24日がけっこう好きだ。
毎年毎年この日が来るのを楽しみに待っている。
別に、誰かと過ごすからいいとか、ではなく。
クリスマスだけじゃなくて、ほかのイベントでもそう。正月とか。
「お、今年もこの時期が来たな、寒くなるな、もうすぐ正月だな」とか考える。
実家では毎年、ツリーを飾ったり、クリスマスソングをかけたり、肉を焼いたり、朝起きたらプレゼントが置いてあったりして、それを毎年毎年同じように続けていた。
そのへんはうちの親もなかなかえらいな、と思う。
そういえば、うちの母親はけっこう、というかかなりいい加減な性格だけど、ひな祭りとか、正月とか、節分とか、「こういうのはちゃんとしないといけないの」と言って実行する人だった。冬至にはゆず風呂になっていたりした。
まあそういうのとクリスマスを一緒にしていいかは疑問だけど。
一年のめりはりというか、「折り目」みたいなもん。
クリスマスらしくすごすことに、意味がある。
小さいころは何も考えずにわくわくしていたけど、サンタが誰かわかって、クリスマスは日本経済が一番喜ぶイベントだと知った今でもやっぱりわくわくしてしまう。
しかし、今日は残念ながら全然「らしくない」一日を過ごしてしまい、アイロンをかけていないシャツを着ている気分です。
よっぱらいのうた
今日は、酔っっぱらった。
まだまだ飲みたかったけれど、とがめられたので帰ってきた。もったいない。振り切ってでも、飲めばよかった。
かえってきて、自分が書いたブログを読んだら、すごく昔のとこで終わってた。
あたしは、毎日、何もしていないはずなのに、やっぱり何かは変わっていて、時間は偉大なのだと思った。
少なくとも、私は、半年前のわたしではない。
失恋した人に、その友達が「時間が解決してくれるよ」って言うじゃない。
「いつか、もっといい人現れるわよ」って。
ベタだけど、でも、
ほんとう、そうよ。たぶん。
・・・あ、言わない?
すんません。
でも、とにかく、時間は偉大なの。
でも、でもね、時間って、止まらないの。止まっていてほしくても、止まらないの。
今、この瞬間も「今」ではないなんて、残酷すぎる。でも、ときには素敵だったりする。あなたに会えたのも、そのせいだったりする。
変わらないものがあるのも、あたし知ってる。
明日起きたら、またいつものように、動きださなきゃいけないみたいです。
9月のはじめは
私は今、アイロン台の上でこの文章を書いている。
私はズボラではあるけど、別に家にテーブルがないわけではない。
なんとなく、この上で書いたら楽しそうだと思った。 そしたら、高さがちょうどいい。実は今までも何度かアイロン台にノートパソコンを置いてみようと思ったことはあったのだけれど、なんとなく気がひけて(たぶん、お行儀が悪いと思ったのだろうね、一応長女だし)結局やめてしまった。
思いきってやってみるもので、静かな部屋の中でアイロン台に向かうのも悪くない。
9月に入ってから、急に涼しくなってきたそこまでちゃんと従わなくてもいいのに、と思う。でも、ちょっとずれると「9月に入ったというのに、まだ蒸し暑いですね」とか言われちゃうもんね。大変ですね。
今日は、用があって電車に乗った。3時くらいだったから割とすいていて、立ってる人はほとんどいない。ぼーっとしていたら、なんだか前にいる男の子の様子がおかしい。18歳くらいか。
メガネかけて、ちょっと髪だけ染めてみましたという感じの子。で、その隣にスカートが短いのが少し目立つくらいの普通の制服を着た女子高生が座ってて、かなり本格的に眠っているようだった。
男の子があからさまに女の子の顔と投げ出された足を交互に見て、なんだか落ち着かない様子。周りの乗客のこともかなり気にしている。でも、
不思議なことに車両一彼のことを注視している目の前のあたしには気付かないんだなぁ。彼は決意を固めたように、腰に付けた携帯ケースからバリバリっと携帯を取り出した(今思うと18やそこらでマジックテープ仕立ての腰携帯ケースもないだろうと思うけど、そのとき焦点はそこではない)。
すいた車内に、マジックテープをはがす音がやけに大きく響く。それもヒートアップした彼には関係ないことのようだ。
ああ、これはやばいな、こいつやらかすな。誰も気付いてないみたいだし、止めるのはあたししかいないな。
こいつバタフライナイフ持ってそうだなぁとか、トウチャンニイイツケテヤルとか言い出しそうだなぁとかいろいろうだうだ考えている間にも、彼の動作はあやしさを増していく。
そろそろ動かないとまずい、と思った瞬間、あんなに真剣に眠っていたはずの女子高生がぱちっと目を覚ました。そしてとなりの男の子を不審そうに眺めた。
シックスセンスが働いたのだろうか、不思議なもんだ。その後、終点に着いて、彼らが別々の方向に歩き出したのを見届けた。
チュウチュウおくさんの手も借りたい
・・・そうこうするうちに社会人になってしまいましたとさ。
来月から転勤になるので引越し準備をしています。
そしてわかったのが、自分が必要だと思っていたもののほとんどが実はゴミであったという事実です。
もうね、3分の2がゴミ。
つみあげられた45ℓゴミ袋10個(4月12日現在)を見るたび、こいつらのために家賃を払っていたんじゃないかと思わされ、怒りすら覚えます。
引越しがこの世で面倒くさいことのベスト10に入ることは間違いないです。
でも、なかなか楽しい作業であることもまた事実です。
この家に引っ越してから一度も大掃除をしなかったのは、私がズボラで面倒くさがりの横着者だからではなく、このわくわく感を楽しみにしていたからかもしれません。いや、きっとそうです。
まぁ、こんなところに探していたセーターが!「いまさらおせんだよ」と一人でつっこんだり、誰がうつってるんだか正直わからないプリクラを発見して申し訳ない気持ちになったり、大学2年のときに書いた「鳥取の20世紀梨産業」という論文を発見して成長のなさに愕然としたり、ほこりにまみれたスヌーピーをみつけて胸が苦しくなったり、上京するときに母親にもらった手紙を発見して涙ぐんだりするわけですよ。
ノスタルジーついでに、気が遠くなるくらいゴミだらけの押入れを眺めてピーター・ラビットシリーズの「のねずみチュウチュウおくさんのおはなし」にでてくるがまがえるの住む穴を思い出したりもします。2年前の通販のカタログや、なぜか弟の制服、へんてこりんな帽子、無駄にカラフルなカーテン等がつめこまれていました。
ピーター・ラビットの中では「のねずみちゅうちゅうおくさんのおはなし」がいちばん好きだな。
適当でごめんなさい。
いちおう
15日、無事に卒業式を迎えることができました。
本当によかった。寝坊はしたもののなんとかなった。
そして本日16日からオーストリア、チェコ、ポーランドへ旅行に行ってきます。
ですが私のもとには航空券引き換え券が届いていません。
準備もできてません。でもなんとかなると思っています。
帰ってきたら書くのでゆるしてください。ごめんなさい。行ってきます。
お久しぶりですか
長らくブログをお休みしていました。
こういうことは最初に言うべきですよね。「お休みします」ってね。
「何度行っても同じ記事だ。どういうことだ。早く書かんか」と何人かの物好きからお叱りをいただきました。ありがたいことです。
休もうと思って書いてなかったわけではないんです。書く気にならなかったというのでもない。
何度も書こうと思って書いてはみるけど、書けない。「明日書こう」と思っているうちにクリスマスは過ぎ、正月も過ぎ、最後の試験も終わり、ハッピーバレンタインも過ぎ、オリンピックも終わり、時代の寵児は拝金主義者と呼ばれるようになりました。
この2ヶ月ちょっとは完全に思考停止の状態でした。
何も考えない。何もしない。「何もしないをしよう」という旅行会社のコピーがぴったりの生活を送っていたわけです。
きっとのうみそは湯煎で溶かしたチョコレートのようにとろとろです(ほら、話題が古い)。そのうち耳から出てくるんじゃないでしょうか。
思考停止というのはじつはとても危険で、他人に不快な思いをさせる可能性が高くなります。
「たしかこの人、玉子焼きにマヨネーズかける人だったな。マヨネーズ用意しなきゃ」という想像ができなくなる。ものすごい冷え性の人と一緒にいるのにオープンカフェに入ろうとしたりする。というようなことをしでかすかもしれない。
だからというわけでもないけど、人にもあまり会わなかった。
でもそういうわけにもいかないので、学生生活も1ヶ月をきったわけだし、なんとかこのとろとろののうみそをせめてどろどろくらいにはしたいな、と思っています。
というわけで、ブログを怠けていた言い訳だけでけっこう書いたのでまた明日。
楽しいことも、悲しいことも。
船橋
ミスターチルドレン
富士山
温泉
ヴィッツ
回転寿司
無線
晴海ふ頭
ポケモン
キウイサワー
産経新聞
問題 この中の3つを使って作文しなさい
ウソです。
高校生の頃。授業中やテスト中暇だから自分の生活とか、読んだ小説の中の名詞を片っ端から書き出す作業を行っていた。
気持ち悪いよね。
意味はなし。
でも楽しいよ。
サバカレー
かたかたといいペースでパソコンのキーボードをたたいていると、気がつくと23時になっていた。
おなかがすいたので冷蔵庫を開けると賞味期限の過ぎた卵と大根しか入っていなかったので、コンビニに行き、夕飯を物色する。
食べたいと思うものが、何もない。
友人から「コンビニのおにぎりはねぇ・・・」という身の毛もよだつ、おにぎり製造工場での秘話を聞かされていらいコンビニのおにぎりは食べられなくなってしまった。
コンビニの弁当類は、食べると必ず後悔するので買わないことにしている。
しょうがないから「のりたまふりかけ」でも買って帰ろうと思ったら、近くに「サバカレー」なる缶詰を発見した。
「サバカレー?!」
「サバカレー・・・。」
「ああ、サバカレー。」
サバカレーを買う。
開けると、カレーの具がサバになったというより、「サバの味噌煮」のカレーバージョンといったかんじ。
サバカレーというかカレーサバ。
ご丁寧にジャガイモとにんじんが入っている。
210円にしてはうまい。
まったくカレーは天才だと思う。
食べ物の中でも、強烈な個性を持ったものに分類されるにもかかわらず、いとも簡単に他の食材(しかもサバみたいな曲者)と馴染んで、新しい味をつくりだす。
カレーってカッコイイやん。
やっぱりあたしはカレーが好きだ。
どっかにカレーみたいな人いないかな。
そういえば、内田樹が彼の著書の中で
カレーうどんの話から、
「食材に限らず、日本人て、変なものを組み合わせることがとにかく好きですね」とはじまり、
「手術台の上でミシンと日傘だか何かが出会うのがシュールレアリスムであるとブルトンか誰かがどこかで書いていましたが」とつなぎ、
「日本人は「民族集団としてシュールレアリストである」と申し上げてもよろしいのではないでしょうか」と日本人の民族特性を結論づけていたのを思い出す。
そして彼もまた天才である。
そうそう、ケータイかデジカメが復活したら写真のっけなきゃね。
今、どっちも手元にないのよ。
小さいことにくよくよするな
っていう本があるみたいだけれども、あれは役に立つのでしょうか?なんて直截なタイトル。
私は小さいことでくよくよする人間です。
前の日記で「プラス思考」と書いたけど、ああいうのに関してはポジティブなんです。卒論とか、何かの結果とか評価とか誰かに何かを言われたとか。
しょっちゅうくよくよしてます。あんなこと言わなきゃよかったー、とか、こういうことを言いたかったんだけど、誤解されてるだろうなーとか、あれは自分の善意でやってたつもりだったけど、実は偽善だったのではないか、とか、なんという思慮を欠いた行動だったんだろう、とか。ここに書くのも恥ずかしいほどくだらないことだったりします。
これが非常に面倒くさい。
今だってくよくよしてます。私だけじゃなく、誰だってそういうことはあると思うけど。
くよくよしすぎて「くよくよ」っていう言葉が奇妙に聞こえてきます。
で、どうしようもなくくよくよMAXになった時にすること。
これは高校生の頃からそうなんだけど、その解決方法は驚くほど視覚的です。
まっしろなシーツを思い浮かべて、その中にくよくよの種たちをつつんで、「ぎゅっ」とやって「ぽん」と放り投げる。
私は1年くらい前、中華料理屋でバイトしていたのだけど、お客さんが食事したあとの白いテーブルクロスを一回ごとに取り替えるわけですよ。
大人数の宴会ともなると、(大の大人が)ぽろぽろたべこぼしたり、クロスの上をゴミだらけにしたりします。チャーハンの粒とか、紹興酒に入れる干し梅の種とか、酢豚のたれとか、杏仁豆腐のぐちゃってしたやつとか、タバコの包み紙とか。ま、それはいいんですけどね。
私たちアルバイトは、宴会が終わるたびにそのクロスをその小さなゴミごとくるくるとつつんで「ぽん」っと投げます。
私はその作業をとても愛していたんですが、バイトをはじめて半年経って、何百回かくらいそれをした頃に、それが何度も頭の中で繰り返してきたことと同じであることに気づき、その偶然に小さく喜んでいました。
そうやって、クロスをひいておくと結構ラクだったりします。
ごしごし拭いたりしなくていいし、いちいちゴミをひろったりしなくてすみます。
本当はごしごし拭いたり、いっこずつひろったりするべきなのかもしれないけど、そんなことしてたら次のお客さんを迎えることすらできないのです。
私みたいに小さなことにくよくよする人は、その原因を生み出しそうな事柄に対して消極的になりがちです。
「でもまぁ、そのテーブルクロスごと「ぽん」ってやっちゃえばいっか。」
と思えると状況はまたがらっと変わってきます。
まぁ、読み返してみるとびっくるするぐらいどうでもいい話。ネクラちゃんなんです、あたし。
白い布を丸めて「ぽん」っと投げたところで、そろそろやるべき事にとりかかります。