メモ
「悪いけど10分外で待ってもらうよ」と言わない部屋づくり~構想~
・無印のポリプロピレン収納をベッド下に設置し、行き場をなくした服をしまう
・服をかけるやつを買う
・ハンドメイドカーテンをむしりとる
・靴をしまう
・2ヶ月分の新聞を資源ごみに出す
・出したらしまう
・床に物を置かない
・本をなんとかする。とりあえず積まないことから
・中国語の辞書は明らかに不必要であることに早く気付こう
・ゴミは捨てる
・夜は家に帰る
・あきらめない。できることからこつこつと。
・脱ぐなら泣くな、泣くなら脱ぐな
・最終的には帰りたくなる部屋を目指す
決めた。明日からダイエットするわ。
期日前投票に行った。
したら、すごい混んでて、エレベーター乗るにも順番待ちで、待ってたんですよ。
整理してた人に「まだ乗れますから、どうぞ」って言われて乗ったら、エレベーターの奴が降りてくださいって言いやがった。
人がいっぱいいて、シーンとした中で「定員オーバーです」ってアナウンスが流れて、「あ、すいません」って言って降りた若い娘の気持ち、わかるかなぁ?
こだわりの一品
今日、急いで出かけようと思ったら靴下がない。
迷った挙句、誕生日に友人からもらった
ヨン様靴下
をはいて出かけることにした。
半年くらい前、テレビでヨン様靴下なるものを見たときは衝撃だった。
本当にこんなものが存在するのか。
もしあるとすれば、おばさま方はこれを着用しているのか。
韓国側はどういう意図でこれを製造しているのか。
愛する人を靴下なぞにしてしまうのはアリなのか。
太い足にはかれた結果、ヨン様は別人になってしまうがそのへんはどうなのか。
どうして靴下なのか。
私にはまったくわからない。
それからというもの「ヨン様靴下」をひとめ見てみたいという野望を密かに抱いていたのである。
韓国に行くという友人に、迷わず「お土産はヨン様靴下にして」とリクエストした。
まさか買ってこないだろうと思っていたのに、韓国から帰ってきたその日に「はいこれ、言ってたやつ」と生で手渡された。つくづくできる男だ。靴下を持ってレジに向かう彼の姿を想像するだけで拝みたくなる。
かくしてヨン様靴下は私の22歳の誕生日プレゼントになったのである。
そして今日はじめてヨン様靴下をはいて出かけたわけなのだけれど、これはよくない。
運悪く事故に遭ってしまって靴を脱がされたときに、お医者さんがこれを見たら手術に集中できなくなってしまうんじゃないかと余計な心配をし、「四月の雪」のポスターを見れば申し訳ない気分になり、しかも今日はダンススクールに行ったので、ストレッチしている間見られないかドキドキした。
ヨン様ファンでもない私でさえ申し訳なく思ってしまうんだから、ヨン様ファンのおばさま方はこんなものを作っていることに対して怒り狂うのではないだろうか。
総選挙に寄せる期待
今日朝起きてインターネットのニュースを見てたの。
そしたら「小林氏らも新党結成」ていう見出しがあって、小林さんが
らも新党
を作るんだ!
中島らもの思想をうけついだ党を結成するのか?!これで日本も変わる!でもドラッグ合法とか言い出すんじゃ、と期待と不安を持って記事を読むとなんのことはない、小林さんたちが新党結成するんだね。
紛らわしいよ。
むくみすっきりカモシカ足シート
GOOD LUCK☆とか言いつつ、もう一回だけ更新してみます。
「もう、わたし、何を信じればいいのかわかんない。」
と私の友人がチワワのような目をしてつぶやいていました。
彼女をそこまで落胆させている理由は、まったく関係ない私が聞いても「そりゃ、そうだわな。」と言って絶句してしまうようなことです。
「何を信じればいいんだろう」
ほとんどの人が、口に出したことはなくても心の中で叫んだことはあるだろうこのセリフ。
わかる、すごくよくわかる。
誰だって何かを「信じる」ことなしには生きていけません。
それは、自分以外の誰かであったり、自分の能力であったり、国であったり、会社であったりします。
では、「信じることができるもの」は果たしてむこうからやってきて、「ほら、信じて」と言ってやってきて、無条件にごくりと飲み込める種類のものでしょうか。
・・・違いますね。
「信じる」という行為は決して受身ではありません。
私たちは自分の「信じたいもの」を自ら選び取って信じているのです。
だって、この世に絶対などと言い切れるモノはないんだから。そんなの誰だってわかっているはずです。
憧れのマイホームを買えば、幸せになれると信じて、がんばってがんばって働いて家を買う。
心の奥底ではそんなもので幸せになれるなんて思ってもいないのに夢に向かって働く。
一生懸命勉強して、いい学校に入れば幸せになれる。周りの人間を見ていればそうではないことは明らかであるにも関わらず、信じてがんばる。
YOUみたいになれるはずがないのに、YOUの髪型をまねしてみる。
何度男に浮気されようと、「違う、この人は違うの」と信じる。
たぶんわたしたちは、「信じたいものを無理やり信じる」ということでしか、上昇することはできないし、息をすることすらもできないのです。
だって、この空気の中にアレが入っているかもしれないんでしょ。
だから、「信じる」という行為には責任が伴います。
「信じてたのに・・・ウソツキ!!!」と人を責めてばっかりいるのは、ただのバカ女です。
でも逆に、自分がかくかくしかじかのデータをもとに「自分で」選択して、「自分で」信頼したのだから、「まぁしょうがないか」と自分を慰めることもできるはずです。
そしてその人自身を許すこともできるはずです。
だから、何かを信じるというのはバカなことでもなんでもなく、すごいことだと私は思います。
ほんとは違うんだろーなーと思いつつ信じることができるのは能力と呼べるシロモノです。
「一日10分聞くだけでみるみる英語が上達するCD」でも、小泉首相でも、あなたの隣にいる知らない女物の香水がぷんぷんする彼氏でも、どんなに胡散臭くたって、信じたいなら、信じればいい。というかそれしかない。
見えてしまうものを見ないようにする能力はこういうときに役立つのです。
裏切られた時のリスクなんてたかが知れています。
「あたし、バカだったなぁ、アハハ」で済ませてしまいましょう。
だってもしかしたら、そのウソや裏切りや失敗の中に、砂金のようにほんの少しでも、ほんとにほんと、が存在するかもしれないじゃないか。
それに、何かを信じている間は確実に自分は成長しているのだから。
だから私は今日も「むくみすっきりカモシカ足シート」を貼って眠ります。
もちろんこれは自分への戒めでもあります。
おやしゅみ。
ぷんぷん
最近、百貨店でクレジットカードの受付のバイトをしている。
そこのカード会社の人たちはみんな優しいひとばかりなのだけれど、話が「個人情報」になると人が変わったように額に青筋がはしり、すこしでも書類をだしっぱ(ものの5秒)にしておこうもんなら、「それえええ!しまってええええ!!!はやくぅううう!きええええ!」と叫びだす。
どこもかしこも「個人情報」に対してナーバスになっているし、カード会社だから神経質ぐあいはもう輪をかけてすごいのである。
なんでも、アメリカでクレジットカードの個人情報が流出した事件の後、「あんたとこは大丈夫なんか?!」という電話が鳴り止まなかったらしい。
ご苦労様である。
個人情報といえば、一緒にダンスをしている友達のM嬢が、壊れたケータイを握りしめてなにやら怒っていた。
メールやらアドレスやらのバックアップをとろうと思ってド○モショップに行ったら、個人情報がなんやらかんやらと言われて結局できず、いくつかのドコモショップを行ったり来たりしたけど結局まだ壊れたままだということである。
「事情はわかるけど、そのへん臨機応変にやってくれなきゃ困る!(ぷんぷん)」とかなり頭にきていたようである。
わたしは「そのへん臨機応変にやってくれなきゃ困る!(ぷんぷん)」と言っている彼女のあまりの愛くるしさににこにこしながら聞いていたのだけど(20代の日本人女性で彼女ほど「愛くるしい」という形容詞がぴったりくる人をわたしは知らない)、確かに自分が彼女の立場だったらかなりイライラする局面だろうと思う。
ただでさえ行くのが面倒なド○モショップに何度も出向き、しかもケータイが使えないとなるとそれはけっこうなストレスである。
21年間生きてみて、日本という国はつくづく「臨機応変」が苦手なのだなぁと思う。
「ま、あれですね、そこはまぁみんなで仲良くやって、適当にああしましょう」という「曖昧さ、適当さ」は世界に誇れるものなんですけどね。
「んもう、マニュアルにダメって書いてあるからダメなのッ!」(原田宗典風)
が氾濫する、「マニュアル大国、ニッポン」でこれからさらに「あぁもどかしい、ぷんぷん」という状況が増えてくるんだろう。
ごめんなさい
昨日のブログに書いた「名古屋男児」について、
「名古屋の友人はたくさんいるが、そんなやつは見たことがない」
「うちの父親は名古屋男児だけど、いつも母親を泣かせている」
「オレは北海道出身だがいい男だ」
「そもそも、合コンに行って電話番号も聞かれないくせにえらそうなこと言うな」
「化粧してると葉月里緒菜似だけど、すっぴんはETだよね」
「CD返せ」
などといったご指摘を多方面からいただきました。はいはいはいはい。
なるほど、というかやっぱり、というか。
名古屋男児がいい男であるというのは、わたしの周りだけでのことだったようです。
まぁ、昨日のブログでわたしが言いたかったのは「女の子に花束あげたら喜ぶよ」っていうことだったので特に問題はないでしょう。
変わるもの、変わらないもの
初めて東京に来たのは、先日書いたディズニーランドに行った小学5年生の時だった。
ディズニーランドについてほとんど何も覚えていないのと同じように、東京観光についてもほとんど覚えていない。
はっきり覚えているのは東京タワーに行ったことである。
それには理由がある。
せっかく来たから、と言ってわたしたちはエレベーターではなく階段でのぼった。
のぼったことがある人ならわかると思うが、あれをのぼるのは結構ハードである。途中休憩できるような場所はぜんぜんないし、ましてやトイレもない。
あとちょっとで展望台に着く、というところで私は信じられないものを見てしまった。
う○こが落ちているのである。
「誰が、どうして、こんなところに??」
そのときの衝撃は今でも忘れない。
そのおかげで、あの白と赤の鉄塔とう○こは私の記憶のなかで分かちがたく結びついてしまった。
それから十数年、私のなかで「東京タワー=う○こ事件」だったのである。
だから、自分が東京タワーのことを考えて目が腫れるほど泣くなんて夢にも思わなかった。
都心に毎日のように通っていたときには、何度となくその姿を見た。電車から、歩きながら。
それは悩みを比較的多く抱えていた時期で、見るたびになんだか元気づけられる気がした。
あるとき、わたしを元気づけてくれたものに近づいてみたいと思って、展望台にのぼるために東京タワーに行ったことがあった。
でも、そのときは下から見上げただけで登らずに帰ってきてしまった。
東京に来て捨てたもの、東京に来て得たもの。
リストに書き出してみたらおもしろいかもしれない。私の場合は圧倒的に前者のほうが多いはずだ。
それでも私は東京が大好きだ。
こんな田舎に住んでおいて東京を語るなんてかたはらいたい話ではあるけれど。
大学受験で二度目に東京に来て、ここは自分が住む場所だと確信した。辞書やら参考書やらが詰まった死ぬほど思い荷物を抱えて満員電車に乗ったときにそう思った。
これまでいろんなところに住んできたけれど、そう思ったことは一度もなかったので、それはそうなんだろうと思う。
わたしたちは、変わらないものを見て自分がいる場所を確認する。
まだいける、と思えばもう少しがんばるし、もうダメだ、と思えば諦める。
誰でも定点観測に使う、「変わらないもの」をもっているのだと思う。
それが、ある人にとっては東京タワーだったり。なかったり。する。あらゆるものが常に変化する東京の街で、唯一変わらず、そこにあるもの。
夢や希望を胸いっぱいに詰め込んでこの地に住み、やがて絶望する。絶対に揺るがすことのできない大きなものにぶちあたって自分の小ささに気づく。
それでももうちょっとだけがんばろう、と思えるのはそういう「定点観測の場」を持っているからではないだろうか。
・・・・・なーんてね。はじかしはじかし。
最近いい本に出会ったのだよ。
いなげやにて
今日5時ごろ、近所にあるスーパーに行ったら大学の友達にばったり会った。白のカーディガンにピンクのFURLAを持ち、キャンパスを闊歩している姿しか見たことがないので、黄色い「いなげや」のかごを持った彼女が新鮮にみえる。それと同時に何か見てはいけないものを見てしまった気がした。
こちらはというと、50円引きの豚肉買ったりしているのできまずい。
かごの中のものをお互いさりげなくチェックしながら、
「あら~田中さん、久しぶり。今日何にするの?」
「ん~今日は冷しゃぶにしようとおもって。お宅は?」
「うちはピーマンとなすのみそいため。今日は主人がいないから手抜きでいいのよ、ほほほ」
「そんなの手抜きって言わないわよぉー!うちなんて旦那いなかったら弁当で済ましちゃうわよ。えらいわぁー」
「そうそう、この前上田さんがさ・・・」
なんて話している。(もちろん細部は違うけど)
女はこわい。
その後で、「50円引きの豚肉じゃなくて美味豚にしとけばよかった」と思うんだから。
こうやってオバハンになっていくのだろう。