変わるもの、変わらないもの
初めて東京に来たのは、先日書いたディズニーランドに行った小学5年生の時だった。
ディズニーランドについてほとんど何も覚えていないのと同じように、東京観光についてもほとんど覚えていない。
はっきり覚えているのは東京タワーに行ったことである。
それには理由がある。
せっかく来たから、と言ってわたしたちはエレベーターではなく階段でのぼった。
のぼったことがある人ならわかると思うが、あれをのぼるのは結構ハードである。途中休憩できるような場所はぜんぜんないし、ましてやトイレもない。
あとちょっとで展望台に着く、というところで私は信じられないものを見てしまった。
う○こが落ちているのである。
「誰が、どうして、こんなところに??」
そのときの衝撃は今でも忘れない。
そのおかげで、あの白と赤の鉄塔とう○こは私の記憶のなかで分かちがたく結びついてしまった。
それから十数年、私のなかで「東京タワー=う○こ事件」だったのである。
だから、自分が東京タワーのことを考えて目が腫れるほど泣くなんて夢にも思わなかった。
都心に毎日のように通っていたときには、何度となくその姿を見た。電車から、歩きながら。
それは悩みを比較的多く抱えていた時期で、見るたびになんだか元気づけられる気がした。
あるとき、わたしを元気づけてくれたものに近づいてみたいと思って、展望台にのぼるために東京タワーに行ったことがあった。
でも、そのときは下から見上げただけで登らずに帰ってきてしまった。
東京に来て捨てたもの、東京に来て得たもの。
リストに書き出してみたらおもしろいかもしれない。私の場合は圧倒的に前者のほうが多いはずだ。
それでも私は東京が大好きだ。
こんな田舎に住んでおいて東京を語るなんてかたはらいたい話ではあるけれど。
大学受験で二度目に東京に来て、ここは自分が住む場所だと確信した。辞書やら参考書やらが詰まった死ぬほど思い荷物を抱えて満員電車に乗ったときにそう思った。
これまでいろんなところに住んできたけれど、そう思ったことは一度もなかったので、それはそうなんだろうと思う。
わたしたちは、変わらないものを見て自分がいる場所を確認する。
まだいける、と思えばもう少しがんばるし、もうダメだ、と思えば諦める。
誰でも定点観測に使う、「変わらないもの」をもっているのだと思う。
それが、ある人にとっては東京タワーだったり。なかったり。する。あらゆるものが常に変化する東京の街で、唯一変わらず、そこにあるもの。
夢や希望を胸いっぱいに詰め込んでこの地に住み、やがて絶望する。絶対に揺るがすことのできない大きなものにぶちあたって自分の小ささに気づく。
それでももうちょっとだけがんばろう、と思えるのはそういう「定点観測の場」を持っているからではないだろうか。
・・・・・なーんてね。はじかしはじかし。
最近いい本に出会ったのだよ。