無限遠の2倍にあるもの | あなたの酸素ボンベになりたい

無限遠の2倍にあるもの

ふと思い立ってメモをはじめることにしました。


「メモをはじめる」って変な日本語。


ありとあらゆることをモウルスキンくんにメモしていこうと思います。


人間の記憶ってすごく頼りないから。すごく感動したはずなのに、怒りを感じたはずなのに、悲しかったはずなのに、何か書こうと思ってもぜーんぜん覚えてなかったりするから。


記憶といえば。

全然違うことを言います。


2週間ほど前、杉本博司という人の写真展に行ってきました。そう、広告ばんばんうってるあれね。「時間の終わり」展。


そこでね、コルビジェやら安藤忠雄やら、いわずと知れたスゲェ人たちがつくった建築を「焦点を無限遠の二倍」にして撮ったボケボケの写真があったわけですよ。彼の作品のなかの『Architecture』シリーズというらしいんですが。


まぁあたしなんかが見たって意味がわかりませんよね。「無限遠の2倍」っていうのも意味わかんないし。凡人としては、そんなボケボケの写真なんか見ちゃったら「真面目にやれよ」、って思ってしまうのがほんとのところです。


でね、そのボケボケの建築の像は「我々の記憶の中に結ばれる、建築の典型的なイメージ」らしいのよ。これはBRUTUSの受け売りです。


ナルホドねぇ。


それで思うんだけど、すごく感動した事柄についてブログなり日記なりに書こうと思うんだけど全然書けないことがある。というか、直後には何も書けない。書いたとしてもおもしろくない。・・・いつもおもしろくないって言われちゃったらあたし何も言えナインダケドさ。


時間がたって、それこそボケボケの像になった頃になって本当に書きたいことが出てくる気がする。

なんかブログをなかなか更新しない言い訳みたいになってるけど。


何が言いたいのかというと、「ボケボケの像」にこそ本質があるのではないか、ということ。


体験の直後の鮮明で繊細な記憶があると、その事柄の「どこに」本当に大切なものがあるかっていうことがわからない。

ああ、あれもすごかったし、これも深読みすればすごいことのような気もするし、あの後食べたカレーも相当うまかったし、というかんじで。


時間が経つと記憶の中の無駄なものが削げ落ちて、ある事柄についての、自分にとって一番大切なものが見えてくるんだろう。

輪郭だけが残ったサヴォワ邸の写真みたいに。








・・・だからって、来年からメモをとることが仕事になるかもしれないのにそれを放棄するわけにはいかないわけで。

ああ、卒論やってるとブログの文章が進むなぁ。

やらなきゃいけないことがあると部屋の片付けしちゃう理論と同じですね。

あたしの場合、それは絶対にないけど。