むこうとこっち、○と×
GW中に村上春樹の「アンダーグラウンド」を読みました。
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件の被害者にインタビューを行い、それを本にしたものです。
手にとったそのとき、はっきりした理由はわからなかったけど、とにかく「今、読まなければいけない」という気持ちになったんです。
でも今は多分こういうことなんじゃないか、というのはあります。
誤解を恐れずに言います。
その理由は「地下鉄サリン事件」と「尼崎の脱線事故」がダブって見えたから。
もちろん、このふたつの事件がぜんぜん違う種類のものだということは私にも分かります。
かたや犯罪、かたや人災といえども事故。
それはもう全然違う。
でも、共通している点もいくつかある。
多くの人が一度に命を落としたこと。
ある日突然、絶対に安全だと思われていた公共の場所で起こったこと。
命を落とさないまでも、体や心に大きな傷を負った人が大勢いること。
被害に遭われた方々のやり場のない怒り。もちろん、ある程度の対象はあるにしても。
これらについては、私はそのつらさやむごさを想像することはできても、正確に100%感じることはできない。
ただただ、亡くなった方のご冥福をお祈りし、被害者の方が一日も早く日常の生活を取り戻されることを願うことしかできない。
でも私が実際に感じとることができることが一つだけあるとすれば、「事件に対する社会、メディアの反応」です。
私は尼崎の脱線事故に関するニュースやワイドショーを何日か続けて見ていくうちに、妙な違和感や「なんか嫌だな」という気持ちを持つようになりました。
「なんか嫌だな」と私が感じたのはなぜなのか。
村上春樹は「アンダーグラウンド」の「目じるしのない悪夢」の中で、
「・・・この事件を報道するにあたってのマスメディアの基本姿勢は、<被害者=無垢なる者=正義>という「こちら側」と、<加害者=汚されたもの=悪>という「あちら側」を対立させることだった。そして「こちら側」のポジションを前提条件として固定させ、それをいわば梃子の支点として使い、「あちら側」の行為と論理の歪みを徹底的に細分化し分析していくことだった。」
と書いています。
もちろんこれは地下鉄サリン事件についていったことです。
でも私はこれが今回の尼崎の脱線事故の報道についてもいえるのではないか、という気がしてならないのです。
この場合の加害者とされるものは言うまでもなくJR西日本です。
事故の後に宴会をしていた。
利益に目を奪われ、安全対策をおざなりにした。
事故にあった電車に乗っていた乗客に対して、その日の運賃を請求した。
無責任な会社の体質。
人間味のない社長。
JR西日本に関するありとあらゆることを取り上げ、とんでもないことだと批判し、大きな×をつける。これが悪なのだと。こいつらは悪者なんだと。
もちろん、事故が起きた原因を究明することはだいじなことだと思う。これらの批判がどうでもいいことだというつもりはありません。
ただ、そんなに単純に○×をつけてしまっていいのですか?と思うんです。
こちら側とあちら側はそんなにはっきり区別できるものなのかと疑問を感じるのです。
「ほんとうに、こう考えてしまっていいのだろうか?」
おそらくそれが私が感じた違和感の原因だと思います。
そして彼はこうも言っています。
「・・・つまりオウム真理教という「ものごと」を純粋な他人事として、理解しがたい奇形なものとして対岸から双眼鏡で眺めるだけでは、私たちはどこにも行けないんじゃないかということだ。たとえそう考えることがいささかの不快を伴うとしても、自分というシステム内に、あるいは自分を含むシステム内に、ある程度含まれているかもしれないものとして、その「ものごと」を検証していくことが大事なのではあるまいか。私たちの「こちら側」のエリアに埋められているその鍵を見つけないことには、すべては限りなく「対岸」化し、そこにあるはずの意味は肉眼では見えないところまでミクロ化していくのではあるまいか?」
もしそうだとしたら。
JR西日本のような会社を生み出したのは、実は「わたしたち」なのではないか。と考えてみる。
JR西日本という会社の体質は「わたしたち」の間にある歪みがあらわれたものだと考えることはできないか。
10分電車が遅れてイライラしたことはないか。と思い出してみる。
もっとくだって、自分がJR西日本の社員だったら上司に向かって宴会を取りやめよう、と言えたか。と想像する。
そういうことを少しでも考えてなければいけないんだな、と思ったわけです。